「愛された」という経験

先日、友人と二人で居酒屋のカウンターで飲んでいた時のハナシ。



僕と同じく彼も4年生。
自然とこれまでの大学生活で出会った人達の話題になる。




やっぱり、お互い良い出会いだけが全てでもない。
最終的に嫌な想い出になってしまった出会いも少なくない。
んなハナシを酒飲みながら話していると、ふと彼が切り出す。


「まぁいい出会いも悪い出会いもひっくるめて、人生でこれまで出会った人全てが、何かを教えてくれた教師だと考えるのが俺の信念なんだよね。」




それを聞いていてふと考えた事。



それを素直に考えられる彼、そして俺も今までの人生で「良い出会い」つまるところの、揺ぎ無い「愛された経験」っつーものが絶対あるんだと。






それを言えるのは、彼の言う「悪い出会い」が今までの僕ら二人の出会いの全てだとしたら?
と考えたからであって。
一つだけでもいいと思うんだ。


ちっちゃい頃、じーちゃんの家に泊まって可愛がられたとか。
親父から釣りやキャッチボールを教えて貰って毎朝やったとか。
高校や大学受かった時に泣いて心から祝って貰ったとか。


口に出すと照れくさいと思うが、「間違い無く愛された経験」って人間の人格形成に物凄く関わってる事だと思う。



でも、プラスだけでもマイナスだけでも危ないとも思うんだ。




プラスだけ。
自分をいい気分にされる事だけ、褒められる事だけしかない。
間違っていると言われる事も無くむしろ、「間違っている事」が「分からない」

これは単純化されすぎてるけど、現実だったら少し寒気がする。



マイナスだけ。
「間違っている」としか言われない。
でもそれは「自分が嫌な事」って意識はずっとある。
だけど、逆の「プラスの方法」を自分の立場でどうやったらいいのか分からない。






「良かった事」「嫌な事」ってレベルな出来事ではなく、深く自分の心に関係するような出来事から無意識のうちに自然に学んでいった事が「今の自分の土台」を形作っているのだと思う。
だから僕は、その新たな土台をまた削ったり埋めてくれる出会いをこれからも求める。さっきの友人のように。




なんでこんな細かいとこまで掘り下げて書こうかと思ったのは、彼が時々本当に楽しげに、実家での家族との出来事を語るからだ。
棘のある言葉を使いながらも、やはり良い想い出として残っているのだろう。

東京に出てきて面白い事のひとつが、こんな調子で地方から出てきた人の昔のハナシを聞く事だ。
そしてその度に、僕も自分の地元の話をする。
東京人が混ざっていれば、合いの手を入れつつ同意できる部分を探しあって笑う。



よく一人暮らしで実家から食料品とかの仕送りダンボールが来て泣きそうになる、って話を聞くけど
僕は上のような話をしてる時こそ、「それまでからの、今にも在る有難さ」に感慨深くなる。